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  • 執筆者の写真清心寺

独生独死独去独来

お経の中にこういった言葉がある。その意味は私たち誰もが、独りで生まれて独りでいのちの縁尽きてゆかねばならない。かわってくれる者はおらず孤独ないのちを歩んでいる。といったところだろう。当たり前のことを記されているようにも思えるが、生き死にだけではなく現に今生きているこのただいまも、孤独ないのちを生きているのではないだろうか。


家族で生活し同じ屋根の下で生きている親子であっても、本当の意味で分かりあう事は難しい。ある方がおっしゃられた。母が年を重ね認知症を患いガスコンロの火を消し忘れる。戸締りを忘れる。そんなさなか母はある難病にかかり、体の自由がきかなくなっていった。また近所との付き合いも希薄であった。するとどうだろう。子である介護者自身が孤独を感じ、次第に親が親でなくなってゆく。子である自分が親に対して恐ろしい事を考え、子でなくなってゆく瞬間がある。つながりを一番感じられると思っていた親子でもそれぞれに孤独ないのちを歩んでいるのだ。と。


また家には中学3年の息子がいるが、高校受験の志望校を決める際、都内の高校を受験したいと言われた。生まれたばかりと思っていた息子が家を出てひとり寮に入りたいという。ここで手を離せばもう共に暮らすこともないのかもしれない。私は結婚し、子どもを授かり、人との繋がりも増え、年を重ねるにつれ大切なものが増えるのかと思っていた。しかし現実は年を重ねるにつれて大切なものは減ってゆくのだ。家族、友人、また自分自身の健康もそうだろう。


ここに孤独な私の姿がある。人はみな心のどこかで知っているのだろう。だからこそSNSに夢中になり、フォロワーの数やいいねの数にホッとする。つながりを求めている。独りではないと頷きたいのではないか…。でもこれらはクモの糸の様な細いつながりで、ちょっとした風で切れてしまうような繋がり。根本的に孤独な私自身を支えうるものにはならない。もっと言えば、それらのつながりも発信を一つ間違えば炎上し、繋がっていたと思う人も敵になってしまう。


独生独死独去独来…。独りで生まれ独りで去ってゆく。何ともさみしく思えるが、その独りであるという事実への気づきから、人の歩み、仏法との出会いが始まるのではないかと思う。

阿弥陀仏の教えを、お釈迦様から親鸞聖人に至るまでつないで下さった、七人の高僧がおられる。七高僧と言われる方々であるが、その中のお一人善導大師は『二河白道』というたとえ話を残して下さった。ここには孤独な旅人が阿弥陀仏と出会ってゆく姿が描かれている。

私から家族・地位・健康、色々なものが離れてゆく。根本的に孤独ないのち。その姿に独生独死独去独来という言葉を重ねてみる時、悲しく厳しい事実を突きつけられてゆくように感じる。しかしながらその孤独な私に二河白道の旅人を重ねてみてゆけば、その孤独な私は同時に、阿弥陀仏の救いにあってゆくものであった。決して孤独なまま終わってゆくのではなく、私を離さぬ願いがあったのだと頷かされてゆくのだと思う。


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