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  • 執筆者の写真清心寺

此岸を生きる

春のお彼岸が過ぎ、寺院での活動は日常に戻っている。彼岸とは彼の岸と書くが、お浄土の事を指し示し、そして私たちの歩むこの娑婆を彼岸に対して此岸(しがん)という。


此岸は絶えず揺れ動いたものだと思う。例えば、毎日の夕方のニュースで発表される新型コロナウイルスの感染された方の数を見て、増えた減ったと一喜一憂するのだろう。ワクチンの明るいニュースを聞けば、ホッとし、副反応のニュースが出ると怖さを感じる。私たちの抱えている情ひとつでこの世の中は違った景色に見えてしまう。だから揺れ動いているように感じるのかもしれない。また私自身の身を考えても、1日過ごせば1日歳をとる。1年で1歳10年で10歳の年を取る。当たり前のことではあるが、人の根底にある生きたいという思いと裏腹に、生きるという事がそのまま、生きるという事を否定してゆく。生きたいという思いが自己のいのちを削ってゆく事に違いない。何とも矛盾した存在なのだろうかと恐ろしさも感じるが、同じ姿を留めることなく、変化してゆく身を今ここで揺らぎ生きているのだろう。


ボールに糸をつけ、振り子をつくり左右に少し振ってみる。ひだりに振ると同じ幅だけ右に振られる。ボールは左から中心を超え右へ。右からまた中心を超え左へ振られる。中心と書いたが、振り子の中心をこの目で見ることはできない。けれど、目には見えないがそこには確かに中心があり、その中心から同じ幅だけ右左に振られるのだろう。


ここに彼岸と此岸の姿があるように思える。それは、刻々と移り変わるいのちを絶えずオロオロと揺らぎ生きる私に、浄土の願いが届いている姿が振り子の様子に似ているように思えてならないのだ。お浄土は常住なる世界、常住とは無常と反対の言葉であり、永遠に変わることなく存在し続ける事。また、浄土は私の善悪や損得に影響されることなく確かにここにはたらいているとお聞かせいただく。私の揺らぎと無関係に、男女・老若様々な価値基準を超えて、我がいのちを貫き、我が人生の中心となりここに届いていて下さる。


ひとは物事を考えてゆく時、どこまでも自己を中心に考え、自己の損得・善悪にてすべてを裁くように生きてゆくものだと思う。しかし、その自己の立ち位置を確かめさせていただく存在として、私の人生の中心となって下さるお浄土を味わわせていただく時、どんなに左右に揺らぎ振られるような歩みであろうとも、その人生の振り子の糸は絡まったり切れたりすることなく揺らぎ続けるのだろう。そして、どんなに揺らごうとも、人生の依って立つ中心を見失わず確かめてゆく中で、自身の心のありよう(裁くばかりの自己)を立ち止まり見つめさせていただく事ができるのだと思う。


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