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  • 執筆者の写真清心寺

本当と偽物

小学校時代、これからは情報化社会になると担任の先生に言われたことが思い出される。そして情報化社会となってゆく中で、情報の取捨選択をしてゆかなければならない。だからあなたたちは、情報を見極める力をつけることが大切です。とあわせて教えてもらったように思う。その頃は、何も思わずただ聞いていただけだったが、今その言葉が私をつかんで離さない。


2011年の震災で原発が爆発した時、目に見えぬ放射能に対して自分なりに行動した。ガイガーカウンターで測るとホットスポットという一見何も変わらない世界が危険と知らされ、またテレビをつければ様々な専門家から多様な情報が伝えられた。それだけではなく、インターネットを見ると出所の分からない情報であふれかえっていた。その度に自分の考えが揺らぐ。『わからない』見えないからこそ様々な事を推測し、自分の信じたい情報を選んで歩んでいたように思う。それが確かな事か不確かな事かはわからぬままに、とにかく安心したかったのだろう。そして、あれから数年がたち、今度は新型肺炎の流行に踊らされているように思えてならない。放射能とは違うが、見えないものと向き合わなければならないことの難しさを、2011年同様に抱えている。そしてそれは私だけではなく、社会全体もまた同じような流れになっているのだと思う。


振り返るとパチンコ店ではクラスターなどは発生しなかったが、昨年の春先は、政治やマスコミ、社会皆でパチンコ店を叩いた。マスコミが放送すれば、それを見る視聴者はステレオのように口々に同調し、政治家が店名公表すると言えばよくやったと皆で安堵した。事実よりも自己の安心のために推測や憶測で犯人を見つけ、叩きやすいと思えば、みんなで攻め立てるのだろう。


以前法語で「本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする」という言葉に出会わせて頂いた。様々な情報がある中で、不確かな私が不確かなものを掴み、揺らいではまた何かを掴もうとする。これが本当の事だと信じてはその意見からズレるものを排除し、よかったと安堵する。誰もが自己中心的なものの見方をする事しかできない。仮にそこに利害関係が絡めばなおさらだ。わからない事は怖い。けれど、わからない中で行動し、飛びつきやすいものに飛びついて全体化してゆくこの社会はさらに恐ろしい。


だからこそ、分からない。見えない事に対して謙虚でありたい。本当でないものを本当にして、人を傷つけることが平気になってゆくことの怖さを知っている人間でありたいと思う。


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