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  • 執筆者の写真清心寺

「わたし」は「わたし」

現代は様々なものに価値を見出して生きている。例えば洋服・車など。買い物に行けば値段やブランド、素材など。様々な価値を見て比較し購入する。


しかし、その価値の視点に人間自身が縛られているのではないかと思う事が多々ある。小学生の子どもたちを見ていると、公園いっぱいに走り、汗をかき、大声を上げる。そこにいのちの躍動があり、ただひたすらに走る子どもたちの自由が輝いて見える。ところが、中学高校と進むにつれ、偏差値と言う社会の尺度で測られ、社会に出れば年収などの数字が当てはめられて序列が出来上がり、あたかもそれがその人の全てのように扱われることもある。偏差値・年収だけではない。いのちには年齢と言う数字を当てはめ価値として見られることがある。


昨年の春から夏にかけてドラッグストアからマスクが消えた。インターネットを見ると通常の5倍から10倍の値段であったと記憶している。皆が求め、そこに価値を見出していたからこそ、需要と供給のバランスが崩れ高額になっていったのだろう。では、そこに自身を重ねてみるとどうだろうか…。私たちもそのようにありたいと思った事はないだろうか。勉強し学力を上げ狭き門の大学を目指し、社会の中では生産性をあげる人間でありたい。皆から求められ、まるでマスクの値段が上がって言ったように、自分の価値を上げ求められる特別な存在でありたい。と思ったことはないだろうか。


ある会社の代表の方がおっしゃられた言葉が耳の底に残っている。働いていた時は毎日色々な人から連絡がきた。名刺もたくさんある。年末になると、いただききれないお歳暮の多さにうんざりしたこともあった。年賀状も凄かった。しかし、会社を辞めるとどうだろう。今となっては数十円の年賀状ですら出してくれる人がいなくなった。私が求められていたのではない。私の身についた着飾った肩書が求められていたのだ。と。およそこういった内容であったと思う。


人は、特別な存在、求められる存在、称賛されるヒーローに憧れを持ち、そうありたいと思う事もあるだろう。しかし、それらを手に入れた人も、自身に肩書が無くなるとき、上に書いた男性の方のように下を向いてしまう。


以前、こんな言葉と出会わせて頂いた。

『マスクはマスク あなたはあなた』

当たり前の言葉だ。当たりまえの言葉でありながら私たちは中々そう思えない。マスクはマスク以外の何物でもない。私たちの勝手な基準で価値を決めているだけで、本来そこには値段などもない。マスクはマスクだ。

そして、私もまた私だ。本来、偏差値・年収・年齢・身長・男女、こういったところに価値を見出しているのは、人間の勝手な視点にすぎない。強いて何があるのかと言えば、そこにあるのは、私がここにいるという事実のみだ。

人間の勝手な価値観で、上下優劣を決めてゆく。マスクの値段が下がったように価値は変動する。しかし、私は私。それ以外の何物でもないという事実は変動する事はない。


人間の価値観の不確かさに振り回し振り回されて生きるのではなく、私がここにあるという尊さに気付ける人間でありたいと思う。


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