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  • 執筆者の写真清心寺

泣ける場

ここ2日ほど気温が上がり、室内の温度計も20度近くをさしていた。境内地にある梅の木は「待っていました」と言わんばかりに花を咲かせ始め、門前を歩く方が足を止めておられた。週末にかけて気温が下がる予想で、体調管理には気をつけたいと思う。


さて、普段事務作業をしている部屋の窓を開けると、清心寺の墓地が広がっている。その窓から外を眺めると、お勤めをされる方、お線香をあげる家族、お爺さんに手をひかれ歩むお孫さんの姿を時々見る事ができる。また、昨日は窓を開けていたら、お参りに来られた方の声が聞こえてきた。「今日は暑いね。喉乾いたでしょう。お水あげるからね。」と言ったのもであった。


作法からいえば、浄土真宗では亡き方にお水をあげることをしない。お水をあげずとも、浄土には既に八功徳水という徳のある水が満ち満ちているからだ。また、以前『千の風になって』という歌に〝私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません〟という歌詞が書かれていたように思う。確かに、亡き方は仏となり阿弥陀仏と同じハタラキをされているとお聞かせいただく。決してお墓の下ではなく、この私のある娑婆世界どこにでもあってくださると味わわせて頂くのだろう。その通りだと思う。


けれど、この今日は暑いね。喉乾いたでしょう。お水あげるからね。という言葉を大切にさせて頂きたいと思う。


先日とあるお寺の掲示板で『泣く勇気を持つのではなく 泣ける社会を目指したい』という言葉と出会わせて頂いた。まだ言葉を話すことのできぬ幼き子どもが泣いていたら、抱きかかえあやすだろう。しかし歩き始めて3歳ぐらいになるとどうか。「頑張れ。我慢。」と言い、泣かなければ「強いねー」と言ってほめる。小学校に入れば、友達の前で泣く事に恥じらいを覚え、大人になった今、人前で涙を流すことは滅多にない。泣きたいことがあってもぐっとこらえてしまう事が多いように思う。そして、そこには泣けない辛さを抱え、人知れず心の中で泣かなければならない苦しみがあるのだろう。だからこそ、誰もが自己の苦しみを外に出すことのできる「泣ける社会を目指したい」という事葉が書かれていたのではないだろうか…。


お墓参りに来られた方は亡き方と対話をされる。まじりっけの無い自身の本心を吐露し、ほっとされるのではないかと思う。毎日来られる方もいらっしゃる。お盆やお彼岸など行事毎に来られる方もおられる。時々行き詰った時に来られる方もいるだろう。

そういった時、自己の思いを裁かれずに告白できる場として、お墓があっていいのだと思う。


亡き方のハタラキはあらゆるところにあってくださる。それはお墓の下だけではなく、花の中に、風の中に、太陽の光の中に…。しかし、残念ながらそのハタラキを私の目で見る事は決してできない。だからこそ、お墓というものが、亡き方と出会う場の象徴としてあるのではないかと思う。

ここに、亡き方を案じお参りをしながらも、実のところ亡き方に案じられた自分自身の姿があるのではないだろうか。


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