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  • 執筆者の写真清心寺

かりもの

以前、お金は寂しがり屋という言葉を見たことがある。いっぱいあるところに集まるという事を言いたかったのだろう。自分の薄い財布を眺めながら、なるほどと思わず頷いた。


自分の財布に入っているお金は、私のものであるが、私のものではない。つれあいに渡されるお小遣いを喜びながら財布にしまっても、買い物をすればすぐに私の手から離れてゆく。その私のものと思っていたお金は、誰かの手に渡った瞬間にその誰かのものとなるのだろう。つまり、お金は因縁によって暫く私と関係を結んでいる存在にすぎない。その視点をもって他の事を考えてみても同じような事が言える。


例えば地位や名誉も、自分自身の努力で掴んだものと思っていても、時がたち役職から離れれば、それを引き継いだ者のものとなる。さらに言えば、私というこの肉体も同じことが言えるのではないか。以前因縁という言葉で書かせて頂いたが、私がここにあるという事実の背後には数え切れない因縁がある。その因縁にもようされて私が生まれてきた。言い方を変えれば、もろもろの因縁の集合体によって私は生じたものに違いない。自分で生まれようと思って生まれてきた人はいないだろう。いつの間にか生まれてきたのだ。それをいつからか私と呼び、私の手、私の体、顔。自己の所有物として生きているのではないだろうか。


しかし、先ほど書かせて頂いた通り、お金・地位・名誉同様、この身体もひと時私とともにあるに過ぎない。浄土真宗大谷派のとる先生が、「いのちは預かりものです」と仰っておられた。人から物を借りたら、誰でも大切にするだろう。そして借りものであるから、返さなければならない時が必ずやってくる。この身にも同じことが言えるのだと思う。大きな因縁の中私は生まれてきた。言い方を変えれば、大きな因縁から預けられたいのちを生きているのだ。これは私が生み出したものでなければ、私のものでもない。借りものだから、大切にする。そして、いつかその借りものは返さなければならない時がやってくる。その時、非常に名残惜しい思いをするのだけれど、有難うございました。そうこの身をかえしてゆくのだろう。


幸せは本来「しあわせ」とは読まず「さち」としか読まなかった。「さち」とは「海の幸、山の幸」というように「求めずとも与えられていたもの」という意味があるようだ。そして、その「求めずとも与えられていたもの」に対して、しあわせを感じ、この字を「しあわせ」と読むようになったのだろう。


今私がここにある。いつの間にか生まれてきたと書かせて頂いたが、大きな因縁の中預かっているこのいのち。求めずともいまここにあるいのち。様々な苦悩を抱え。諦めてしまいそうになる時もあるけれども、ここにあることが幸。大切にさせて頂きたいと思う。


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