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  • 執筆者の写真清心寺

雪のニュースを見るたびに思い返されることがある。ある年の冬、札幌に向かわせていただいた時の事。雪は思ったよりも少なくホッとしていた。しかし、翌朝カーテンを開けると、昨日との街の様子とは一変し、一面の銀世界であった。『困ったものだ』と心の中で呟く。布教のご縁で参らせて頂いたため、濡れた洋服でお邪魔してもご無礼な事になる。雪道を歩くことに慣れていない私は、どうすれば濡れないか?と暫く考え込んでしまった。しばらく思いを巡らし、ふと足元を見ると、そこに沢山の足跡があった。新雪の上を歩けば濡れる。しかし『この上を歩けば濡れずに済む。』そう思いながら私は少しずつ歩み始めることができた。ずっと下を向き、時々自分の現在地を携帯で確認し、一歩一歩と歩を進める。しばらく歩いてくると、今度はどれだけ自分が歩んできたのか気になり後ろを振り返った。するとそこには前の方の足跡と私の足跡が重なった、その上をたよりに歩かれる方がおられた。


納棺夫日記を書かれた青木新門さんの詩に次のようなものがある。


『いのちのバトンタッチ』

人は必ず死ぬのだから いのちのバトンタッチがあるのです 死に臨んで先に行く人が 「ありがとう」と云えば 残る人が 「ありがとう」と応える そんなバトンタッチがあるのです 死から目をそむけている人は 見そこなうかもしれませんが 目と目で交わす一瞬の いのちのバトンタッチがあるのです


様々な災害や病、死というものと出会ってゆく時に、私たちは時々どうやって歩んでいったらよいのかわからなくなる時がある。まるで出口の見えないトンネル。出口が見えればそちらを向て歩むことができるだろう。けれど出口が見えない闇の中ではただ立ち尽くしてしまうばかりだ。

連綿と受け継がれてきたバトンが今手元に届けられている。そして、足元を見ると、多くの方がお念仏の中どう歩んでこられたのか、足跡を見る事ができるのではないだろうか。


浄土真宗は亡き方を供養するためのお勤めはしない。亡き方を案ずるのではなく、亡き方に案じられた我がいのちを見つめ歩ませて頂くご宗旨。

さまざまな出来事がある中、どう生きるべきか、歩むべきかを先人たちの足跡に想いを馳せ歩んでゆきたい。


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