前回、『傷もためらわず、痛みもかまわず 勝つこと ただそれだけが正義と 壊れてもまだ 走り続けるわたしにも あなたは やさしく』と福山雅治さんの『道標』の歌詞を引用し、どういった状況に陥ろうとも優しくそばにいてくれる存在があったなら、人は歩むことができると味わわせて頂いた。
さて、対治と同治という言葉がある。対治とは対して治す。同治とは同じ立場で治す。と言ったところだろう。例えば風邪をひき病院に行く。医者は喉の様子や胸の音を聞き客観的に症状を見て薬を出す。これは、病に対して治してゆくから対治という。では同治とは何か?風邪をひき熱がある際、暑いからと言って裸同然の格好をすることはないだろう。布団をかぶって汗を出し、熱を下げる。熱に熱をもって直してゆく。これを同治という。
これは風邪などに限った話ではなく、人のこころに温もりをもたらすものではないかと思う。子どもが走り回り転んで泣いている時に、バンドエイドを貼ったり薬を塗ったりして、治すこともあると思う。しかし、それよりも子の力になるのは「痛いね」という自己と同じ目線の共感の声ではないだろうか。
熱を出したり、転んだりして痛みを抱えた時などは、対して治す事も確かにできるだろう。しかし、私たちは薬を用いても治す事ができない病を抱える時もある。また、精神的に参ってしまう時、そこから抜け出すことは容易ではない。その対治の手の届かない出来事に人は直面してゆく時、絶望してしまうのだと思う。そこには病状の説明や説得などは通用せず、また、こういう運命だったのだと自分に言い聞かせるように諦めてゆくしかない。しかし、同治はどうだろうか。そこに「知っているよ」「あなたの辛さ私知っているよ」「辛いね」「苦しいね」とともにあって下さる方がいたらどうだろうか。勿論、それによって状況が一変する事はない。しかし、自己の心にあるどうしようもない苦しみが、少し違った苦しみとして受け止める事ができるのではないかと思う。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来という仏さまは対治ではなく同治の仏さま。私たちがお願い事をして、その願いに応えて治して下さることはない。しかし、どのような状況であれ、私を否定することなく「その痛み知っている」と仰ってくださると味わわせていただく時、ひとつ大きな安心をいただく事ができるのだと思う。また、同時に、この同治のおこころを知らされてゆく時、自身の心の内にある情けない部分が見えてくる。病に必要なのは、優しさであり、決して非難する心でもなければ、言葉でもないのだろう。その自身のありようを確かめさせていただきたいと思う。
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