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執筆者の写真清心寺

六道輪廻

六道輪廻とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界を、車輪が回るがごとく永遠に生まれ変わり死に変わりしてゆくという意味である。地獄とはこの上ない苦しみが続く世界であり、餓鬼は貪りの世界。畜生は道理が通用しない弱肉強食の世界、修羅は独善的な怒り・殺しあいの世界。人間は生老病死の四苦にさらに愛別離苦などの四つの苦しみを足した八苦の世界。天上は楽しみ多き世界ではあるが、寿命のある世界。とお聞かせいただく。…この六道輪廻をどう捉えたらよいのだろうか。生まれ変わり死に変わりと言うと、非科学的なファンタジーのように聞こえ、今の私と全く無関係なものとして考えられがちなように思う。


お釈迦様のお悟りのお心に「無我」という言葉がある。我というものが普遍的に続くことはない。といった意味であるが、六道を永遠に生まれ変わりしてゆくのであれば、生まれ変わりの主体である、我という存在が必要となる。無我という言葉は、この実在が否定されているのであり、私という存在が永遠にその迷いの世界を巡ってきたとは受け取りにくい。


仏教には自業自得という考え方がある。自己の行いによって自己が引き受けていかなければならない結果。と言った意味として受け止める事ができるが、この言葉を通して今一度六道について考えてみたらどうだろうか。自己の行いによって引き起こす耐えがたい苦しみが地獄であり、そこの無い欲望が次々と沸き起こり決して満足することのできぬ自己の心が餓鬼をつくる。時に道理の通じぬ自己の弱肉強食の心が、人を傷つけてゆく畜生であり、独りよがりで怒り殺し合いの世界が修羅。では天上はどうか。楽しみ多き世界とお聞かせいただいたことがあるが、寿命があるという。ある方が「幸せすぎて怖い」と仰られた。そう仰ったその時は本当に幸せと思える状況であったのだろう。しかしながら怖いという事は、その幸せが続くことは無いとその方は知っておられるのである。


先日のブログで顛倒というタイトルで書かせていただいた。顛倒とは「ひっくり返る」と言った意味だが、私たちは縁の中で、何をしでかすか分からない我執の心を持っている。その私の心が、現世においてこの六道を作り、迷い転がされるように生きているという事ができるのではないだろうか。


自己の感情に振り回され生きてゆくのが私である。しかしながら、時々立ち止まり、私が生きる世界は地獄ではないか?いや地獄を作っているのはこの私ではないか…。と自分自身のこころのありようを確認させていただきたい。



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