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  • namu27

顛倒

2週間ほどの北海道での布教のご縁も昨日のご縁にて無事に終えることができた。振り返ってみると、様々な土地で初めてご縁を頂く方々と、同じ教えを慶ばせていただいている事が何ともありがたく尊く感じさせていただいた。これもひとえに先人方がその時代時代を懸命に生き抜き、大切な教えをつないでくださったからなのだと思う。


さて、思い返してみると、茨城を出発する前、地域の週間天気予報を見ながら必要と思われるものを次々とスーツケースに詰め込んだ。結果飛行機にて手荷物を預ける時、重さを測ると15キロ。いつもこれぐらいにはなるが、バスや電車を乗り継いでの移動の為、日を追うごとに腕が疲れてくる。毎日晴れていれば動きやすいが、雨の日になると話は変わってくる。北海道の路面は、アスファルトの下にしみ込んだ雨が、冬に氷って膨張する。その膨張によって路面は傷つけられ、凸凹の小さな穴があちこちにできあがる。傘を差しスーツケースの車輪がその穴にはまると進みづらい。お寺さんに参らせていただくため、洋服も濡れないようにしなければならない。そのため傘は大きめのものを用意している。しかし雨が上がるとどうだろうか。今度はその大きい傘そのものが邪魔になる。


雨が降ると必要なものが晴れると邪魔なものとなる。そんなことは当たり前。そう思いつつも、ふと思わされる。自己にとって都合のいいもの(利用できるもの)は傍に置いておきたい。しかし状況がひとつ変われば、そのどうしても必要であったものが邪魔なもの、つまらぬものへと変わってしまう。傘などの〝もの〟にその価値観を当てはめているうちはいいのかもしれない。しかしその価値観をともすると人そのものに当てはめてしまう事があるのではないか。


2016年相模原市で福祉施設にて19名の方が刺殺され、26名の方が重軽傷を負わされる事件が起きた。あまりにも衝撃的な出来事であり、覚えておられる方が多いと思う。

この事件を起こした犯人は障碍のある方々を「心失者」と呼び、「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障碍者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害しても良い」という論理でこの犯行に及んだ。この言葉をメディアを通して聞かされた時、非常に腹立たしく思った。人の存在の尊さを、意思疎通が可能かどうか、社会に貢献しているか等といった金銭的な価値基準で量ってゆく。そしてその勝手に作り上げた価値基準で無駄なものを作り上げ、排除してかまわない存在と考えていった事に、犯人の自己中心性に恐ろしさと悲しさを覚えたからだ。…しかし、私は腹立たしさを感じながら、一抹の不安を覚えた。


傘が必要。傘が邪魔。これは天気という外的要因が問題なのだろうか…。それとも、状況によってすぐに心変わりしてしまう私自身の自己中心性、内的な要因がもたらしたものなのだろうか…。私の内に抱えているこの自己中心性が、ものではなく人に向けられてゆくとき、上記の事件の暴徒と同じ立ち位置になるのではないだろうか。傘を差しつつも、問われている私がここにいるように思えてならない。



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