お釈迦様のお言葉に「思食」というものがある。文字通り〝思いを食べる〟という意味として受け止める事ができるが、ここ数日、子どもたちの成長やそれを取り囲む人達の暖かなまなざしや、想いに触れることが度々あり、以前お話でお聞かせいただいたこの『思食』という言葉が思い出された。
人はものを食べれば生きる事ができる。しかし、例えば小さな部屋の中にひとり閉じこもり、朝昼晩と食事の時間に小窓から食事が提供され、それをいただき続けたらどうだろうか…。身長は伸び体重も増える。間違いなく生きる事はできるけれども、心はどうかと言えば決して成長することは無く、未熟なままなのだと思う。その心を育ててくださるのが〝思い〟であり、その思いをいただくことによって人は成長することができるといった意味であろう。
茨城を出る前、部屋の整理をしていた際、ふと子どもたちのアルバムに目が留まった。そこには保育園の帽子をかぶり、不安な表情で先生を見つめる長男の姿があり、また別の写真には、母と手をつなぎ歩く次男の姿があった。今は高校3年生と1年生。身長や体重もとっくに抜かされ、親子の会話も少なくなってしまった。
しかし、改めてその写真を見ながら、この子どもたちの10数年に思いを馳せる時、様々な方々の想いや音楽、景色、音、あらゆるものに育まれた歴史があるのだと思わされた。言い方を変えれば、その一切のものと切っても切れぬ関係があり、彼らの体の隅々にその全てが詰まっているのだろう。
松下幸之助さんの言葉に『見えないところを磨くと、見えるところが輝きだす』といったものがある。多くの製造業の方が関り、一つひとつの部品を見えないからと言って手を抜くことなく、丁寧に丁寧に磨いた。その磨き抜かれた部品を組み上げてできた製品は、どんなに輝いていたことだろうか。といった言葉の意味だと思う。
同じようにそれは私の身にも言える。人の想いは見えない。緑の育みや、音楽の豊かさ、景色の壮大さ。その時々で何となく眺め見落としている世界に、人はずっと抱かれ、それらの想いをいただき生きてきたのだろう。私は自分自身の力で生きているように思えるが、実のところそうではなく、見えないところでずっと磨き抜かれた私の姿がここにあり、そのあらゆるものの恩恵の中生かされているのだと思う。
そして、その『思食』の中で育まれた私は、見えないところ磨かれたいのち。輝きに満ちているのだと頷かされることができる。改めて子どものアルバムを眺めながら思う。これから社会の中を生きてゆくとき、どうしようもない現実を目の当たりにし、超えることのできない壁や自身の力ではどうしようもないものと出会ってゆかねばならないことがあるだろう。でも、そのあなたがダメなのではない。思いを頂き生きてきたあなたは、輝きに満ちている。大丈夫。と。そして、さらに言えばそれは私のいのちもまた輝きに満ちているという事に他ならない。普段忘れがちなこの育みを、親子、友、様々な方々と確かめ歩んでまいりたい。
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