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  • 執筆者の写真清心寺

梅の実

毎年6月中旬に境内の梅の実を収穫する。それらを梅干しやジュースにしていただく事が楽しみのひとつとなっている。

梅雨入りをしたこともあり、天気予報と自己の日程を見比べながら、「○日後にはとれるかな…」などと思いを巡らす。しかし、予報がハズレ収穫しようと思った日に雨が降ることもしばしば。境内に無情にも梅の実が落ち散らばっている。


その地に落ちた梅の実を見て思う。先ほどまで木に実っていたこの梅の実は生きていたものだろう。雨が降り大地から水分や養分を木が吸い上げ、太陽に照らされ光合成をし、夜には呼吸をする。縁に育まれこの梅の実は熟し生きていた。しかし、風にあおられその木から離れた瞬間にいのちを終える。ではそれで終わりなのだろうか…。地に落ちた梅の実を見つめると、つぶれたその実から香る臭いに誘われ小さな虫があつまっていた。またその奥を見ると大きな種が見える。梅の実は確かに生きてはいない。しかし、他のいのちを育む存在となっており、また新たな梅の木を作る種を持っているのだ。


私のいのちはどうなのだろうか。食事をし、仕事をし、風呂に入り、眠る。今確かに生きている。しかし、自分で努力をして生きているのではない。心臓を動かそうと思って動かしているものはいないだろう。寝ている時に意識をして呼吸をする者もいない。いつの間にか生まれてきて、今ここにいる。そしてそのいのちは、老病死という事実を抱えている。様々な縁の中で病気や事故などで〝あっ〟と言う間に死を迎えてしまう事もある。それは雨に打たれ風にあおられ木から突然切り離された梅の実のように。


ではそれで終わりなのか…。

20年ほど前にヒットし、今なお様々な場面で歌われている『千の風になって』の歌詞の一部に次のようなものがある。


秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あなたを見守る


地に落ちた梅の実が小さな虫たちの御馳走となり育む姿を眺めつつ思う。私が死を迎えたならば、火葬され埋葬されるのだろう。科学的な事は全く不得手であり適当な事を申し上げるが、きっと私は骨や土、空気、水など様々な物に分解されてゆくのだろう。確かに意識はないが、しかし、単になくなって終わってしまう存在なのではなく、大きなひとつの縁の世界にかえり、他を育むものになってゆくのではないだろうか。梅の実と虫たちを眺めつつそのような事を思わされた。

さて、明日より苫小牧・室蘭のお寺さま4ヶ寺で永代経法要のご縁を賜っている。様々な方とまたお出会いさせていただく事を楽しみに、気を付けて参りたいと思う。



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