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年を取る

  • 執筆者の写真: 清心寺
    清心寺
  • 2021年1月10日
  • 読了時間: 2分

2021年となり改めて月日の流れのはやさに驚かされている。子どものころは早く大人になり、自由な生活をしたいと思っていたが、今は日々の生活に追われ振り返ることもなく、いのちをただ消化しているように思えてならない。


1年経つと当たり前だが1年としを取る。この「とる」という言葉が何ともさみしく思えてならない。人の寿命はそれぞれ、人生もそれぞれだが、例外なく必ず死を迎える時がやってくる。残念ながら死亡率は100パーセント。そのいつ訪れるか分からない私の寿命に向かって、1分1日1年と時間を「とって」ゆく。とればとるほど残りは少なくなってゆくだろう。だからこそ、老いという事がマイナスにとられ「年を取る」事にどうしても悲観的になってしまう。また時間に私の寿命が取られていくような、受動的な意味合いもあるように思える…。


しかし、「年を取る」ではなく、「年を重ねる」と言い換えてみたらどうだろうか。先日のブログで因縁という言葉で書かせて頂いたが、私がここにあるという事実の背後に目を向けてみるとどうだろう。例えば、お米を育てるには、栄養のある肥えた土、適度な雨、適度な風、日照り、温度。様々な条件(縁)が整ってお米という結果が生まれてくる。そしてこれらの縁がひとつでもかけていたなら、結果は生まれてこない。では、私の背後にはどれだけの縁があるのだろう。何億、何兆、いや数字で表すことの出来ぬ縁にもようされて今ここに私はいる。ちょっとした縁の違いがあったなら私はここにいないだろう。


誰もがその大きな縁の中生まれてきた。そして今ここでともに生きている。インターネットで「年を取る」という言葉を「思い出を重ねる」と言い換えている方がおられた。驚くような縁の中で生まれてきた。そしてそれぞれの人が、ともに笑い、時には泣き、怒り、許し、分かち合い、歩んでいる。そして、誰もが人生を立ち止まりふと振り返ると、何とも言えない思い出を持っているのではないだろうか。その思い出が年輪のように1日1年とこのいのちに刻まれ、重ねながら今の私がここにいるのだろう。


取られてゆく年ではなく、縁の中で重ねてゆく年でありたい。消化してゆく時間ではなく、時々立ち止まり今ここにある私を思い、1日を重ねることのできた日々をおくってゆきたい。そして、年を重ねてゆく、思い出を重ねてゆくと頷いてゆく時、人生が単なる時間の経過ではなく、そこに深さや重さといった意味合いが見いだされてゆくのだと思う。


写真は鎌倉の友人が送ってくれた江の島の夕日


 
 
 

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