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  • 執筆者の写真清心寺

死の縁無量

寺院で生活していると、様々な悲しいご縁と出会わせていただく。歳を重ねて亡くなる方、小さなお子さんを持つお父さんお母さんのご縁。生まれてすぐの赤ちゃんのご縁。

それらはどれも等しいいのちであり、長生きすれば良いとか短ければ可哀想などといった話ではない。


しかしながら、同じ重さのいのちでありながら、やはり小さなお子さんの死と出会う時、やるせない気持ちになる。事故や病気など様々な縁が有ると知りながらも、その縁に対してもっとこうするべきだった。こうしておけば助かったはずだ。などと後悔する事もあるだろう。


思えば、人は縁の中で生きている。自身は生まれたいと思って生まれてきたのではない。いつの間にか生まれてきた。そのいつの間にか生まれてきたものを、いつしか私と呼び、今を生きている。そう考えてゆく時、生きている事を必然と考えているが、必然なものなどなく、偶然賜わったいのちを生きているという事ができるだろう。


では強いてこのいのちにおいて必然と言えることは何があるのか。そう考えてゆく時、〝死〟が挙げられる。生きているのは偶然なのかもしれない。しかし生きている以上〝死〟からはどうあがいても逃れられない。死を迎える事だけはこの人生において悲しいけれども必然という事ができる。


死の縁無量という言葉がある。縁の中でたまたま生まれてきた。この私は縁によって今を生きている。そして、そのいのちもやはり縁の中で亡くなってゆく。病気かもしれない。事故かも知れない。その死の縁は人が想像できないほど数が数え切れないほど〝無量〟にある。


その無量にある死の縁を内に抱え今を生きていると知らされてゆく時、当たり前の日々が少し違ったものとして受け止める事ができるのかもしれない。




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