良し悪し、善悪の基準は何かと問われれば、まず法律の事を考える。法律に違反すれば悪であり、それなりの罰を受けなければならない。しかしながら、法律に違反しなければ善と言えるかと言えばそうではなく、その法の網の目をすり抜ける行為であっても「良くない事だ」と思う事もある。だからこそもっと網の目が細かい条例があり、それをもすり抜けるものには道徳という網があるのだろう。しかし、不道徳な行為をしなければ…とさらに問い詰めてゆくとき、自己の心の問題が出てくる。
私は時に、心の内で恐ろしい事を考える事がある。心の内でその想いが溢れては消え、溢れては消えをくりかえす。内から溢れる感情は、自己の思いで自由に操ることはできず、ふつふつと出てくるその感情に振り回されてしまう。
善導大師の言葉に「経教はこれ喩ふるに鏡のごとし」といったものがある。朝起きて歯を磨く際、鏡を通して自身を見た時、寝癖がついていればいけないと直すだろう。ネクタイを締める時、トイレに行き手を洗う時、1日の内に鏡を何度も見ては、自己のありようを確認してゆく。しかし、鏡は自己の姿を映し出すことはできても、心の内までは映し出すことはできない。善導大師は、その私の心を映し出して下さるものこそ、仏法であるとお示し下さっているのだろう。
先日山口別院の折り込み広告を全文アップさせて頂いた。そこには『沈黙している者も非難され、多くを語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない』とあり、新型コロナウイルスによって明らかになった人間性が書かれていたように思う。いつでも善や正義の側に私はいる。そして善と正義は歯止めがきかない。正しいと思っているからこそ、その想いはどこまでも拡大してゆく。しかし、どうだろうか…。仏法を通し、自己の心の内に目を向け、自己の内からあふれ出る感情を確かめてゆく時、法律や道徳、マナーなどと言った網の目でかけることのできない、自己の愚かさというものが気付かされ「本当に自分は善なのか?」と確かめてゆく事ができる。
また、自身の罪悪性というものが知らされてゆくことは、「罪悪感」という言葉があるように、自身の言動にブレーキがかかる。歯止めのない善や正義ではなく、ブレーキの有る自身の悪を見つめることが大切なように思えてならない。
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